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〜 <文明>の新しいかたちを求めて 〜 ( 佐々木寛のブログ )

市民エネルギーという先端――新しい「発展」と「安全」を求めて
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    またまた本当に久しぶりの投稿です。「多忙」は言い訳になりませんが、本当に多忙を極めていました。気がついてみれば約6か月ぶりです。

    世の中は、安全保障をめぐる問題、経済政策をめぐる問題について、それぞれ大きな意見の断裂が見られますが、まずはどちらの問題も深く相互につながっているという事実から出発する必要があると思います。

    国際連合は創立70周年にして「持続可能な発展のための目標(SDGs)」を掲げ、ようやく地球的問題群の各分野に深い相互関係があってそれらを包括的に把握して取り組む必要性(“知のプラットフォーム”)を訴えていますが(https://sustainabledevelopment.un.org/)、グローバル化の時代には、一国の問題も全部相互につながっています。

    安倍政権の安保政策も経済政策も「この道しかない」というわけですが、それは憲法の平和主義という戦後の約束を違えてでも、世界中で自在に軍事行動のできる軍隊を備え、たとえ兵器や原発の売買に手を染めてでも、あのかつてのような経済成長をもう一度、という極端(かつ時代錯誤、かつ非現実的)なものです。一方、それがあまりにムチャなので、国民的な反対運動が巻き起こっていますが、それは「この道しかない」というその道の先には、どう考えても展望がないからです。

    しかし、それじゃ「この道」以外の道はあるのか、ということが問題なのですが、経済成長や発展そのものを否定する、あるいは安全保障政策を考えることもいっさい止めるというわけにはいきません。ややもすると、今の政権に反対の立場の人の中には、そういった主張をする人も散見できます。しかし私の判断では、「経済発展」と「安全の保障」は、国民や市民にとっても最重要の問題として何らかの「答え」を出す必要があります。問題は、「もうひとつの異なったタイプの“発展”」や「本当の意味における“安全“」を構想できるか、という一点にあるように思えます。

    日米安保への従属は止めるべき、原発の再稼働は止めるべき、TPPへの参加は止めるべきだとして、「発展」や「安全」をどのように実現するかを真剣に考える必要があります。私にとって市民エネルギーの試みは、「新しい発展」と「新しい安全」を模索するための、もっとも有望な道筋にほかなりません。

    市民エネルギーの試みは、「成長」や「発展」を否定しません。ただ、これまでのGDP優先主義や生産力主義、効率優先主義とは異なる原理を模索します。つまり、「成長」や「発展」の再定義を行います。市場やお金も否定しません。それらは健全に機能するなら、自由な社会に不可欠だからです。しかし、現在のような怪物化した非人間的な市場や金融を否定します。人間にとっての人間のための人間の顔をした経済を目指します。

    また市民エネルギーの試みは、「保守」の思想を否定しません。つまり、「安全」や「伝統」を重視します。しかし、現在のような「保守」の名を借りた事実上の社会の破壊について強く反対します。「強いものだけが生き残る」という社会は、実は弱い社会です。軍事同盟や軍事力に依存する安全もきわめて脆い。多くの脅威から家族や仲間、郷土を守るのは本当は何であるのかを真剣に考えます。

    そしてまた、市民エネルギーの試みは、生活や社会の礎であるエネルギーを媒介に、あらゆる境界を越えて展開します。強靭で自立した個々のコミュニティが相互に助け合う、グローバルなネットワーク社会を構築します。そしてそれは、開かれた社会と新しいデモクラシーの実験場となるにちがいありません。

    どうでしょう。確かに、私は<夢>を見ています。しかし、こんなにも手ごたえのある<夢>を見るのは初めての事です。
    どうかいっしょに<夢>を見ませんか?

     
    | 佐々木寛 | - | 00:08 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
    文明 タイプ0
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      本当に久しぶりの投稿です。市民エネルギープロジェクトで多忙を極めていました。

      このプロジェクトについての省察は、またおいおい投稿できればと思います。今回は、宇宙論からのお話し。

      たまたま宇宙理論の話をテレビを観ていたら、「並行宇宙」や「暗黒物質」、「超弦理論」などの最先端の話に加え、コントロールできるエネルギーの種類と規模で「文明」を分類できるという興味深い話もでてきました。それによると、「文明」は、タイプ機兵分の惑星のエネルギーを気象等も含めすべてコントロール)、タイプ供兵分の惑星と恒星のエネルギーをコントロール+自分以外の惑星に一部植民地も建設)、タイプ掘兵分が所属する銀河系のエネルギーすべてをコントロール)があるということになるそうです。もちろん、私たちの「文明」はタイプ気砲眛呂ず、「タイプ0」にとどまっています。私たちの「文明」がタイプ兇筬靴砲覆襪砲蓮⊃兆年かかるかもしれません。とにかく話のスケールが巨大で、その点さすが宇宙理論です。

      けれども、良く考えると、こういった「文明」観自体が古いパラダイムに依拠しているのではないか、とも思います。そもそも「自分の惑星のエネルギーをすべてコントロールする」「植民地をつくる」という発想自体が、モダニズムの範疇を出ない気がします。タイプ兇播仂譴垢襦崑斥曄廚...エネルギーを拝借しつつ、タイプ気良饌罎任△誅農韻亮然環境の中で、そのエネルギーもむしろ「受け身で」活用していくというパッシブな「文明」は、「文明」のタイプとしては進歩ではなく退化に当たるのでしょうか。

      もし宇宙のどこかにきわめて長く持続し、高度に発達した「文明」があるとすれば、それはどんな「文明」でしょうか。自然科学者から見ると、それは宇宙のきわめて広範なエネルギーを支配する巨大文明ということになるのかもしれません。確かに、宇宙人が地球人の「文明」を見た時に、「まるでアリがアリ塚をつくっているように見える」、「アリに原子力をあげるから、女王アリに会わせてほしいと言わないように、宇宙人も私たちに無関心である」のかもしれません。けれども、違う考え方も可能です。何千万年、何兆年も続く「文明」がもし存在するとすれば、それは自己の限界を十分に理解し、宇宙と調和しながら生き続けることを選択した「文明」なのかもしれません。そう考えれば、スターウォーズのようなイケイケの「文明」像ではなく、逆に思いのほか地味な「文明」像が浮かび上がってくるかもしれません。つまり、「アリ塚をバカにするな」、ということです。


      それにしても、50億年経てば、太陽も寿命がきて、地球も太陽に飲み込まれるかもしれません。太陽は超巨大な核廃棄物の塊となるのです。私たちは星屑から生まれて星屑に還る…。すべてには終わりがあるのだということです。
      | 佐々木寛 | - | 10:59 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
      「おらって」にいがた市民エネルギー協議会 設立趣意書
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        設立趣意書
         
        2011311日の東日本大震災とそれにともなう福島の原子力災害は、「天災」あるいは「人災」であると同時に、日本の戦後や近代文明のあり方そのものを問い直す「文明災」とも言われました。またこの災禍は、中央が潤うために地方が負担やリスクを背負うという、中央と地方との不平等な関係も浮き彫りにしました。今まさに私たちは、これまで築いてきた社会のあり方や「豊かさ」そのものを根源から問い直し、未来の世代に引き継ぐための新しい社会のあり方を模索しなければならない時代を迎えていると言えます。
         
        この「新しい社会」は、それぞれの地域の現実に即して市民が自らの力で発案し、創り出す必要があります。またその実現のためには、地域経済、金融、地方行政、消費文化やライフスタイル、あるいは地域の安全保障に至るまで、きわめて包括的な課題に取り組まなければなりません。そこで、このような課題に適切に対応するものとして、現在世界中で注目されているのが、市民によるエネルギー事業(市民エネルギー)の試みです。「文明の血液」とも言えるエネルギーのあり方を、その生産から流通、消費に至るまで、市民自らが考え、実践する「市民エネルギー」の試みは、市民による包括的な社会分野への参加を可能にするため、世界中で民主主義そのものの深化と拡大を促しています。
         
        この「市民エネルギー」の実践は、さらに地域に新たな雇用や財の流れを生み出し、地域の内発的な発展を促します。ヒト・モノ・カネの流れが中央に集中する経済・社会構造を徐々に変更し、真に自立可能な地域への転換を促します。21世紀は中央集権システムが世界中で限界を迎え、真の地方分権や地域の自立が求められる時代となりましたが、地方が実質的な活力をとりもどすためには、中央のみならず、地方自らが創意工夫し、自立のための具体的な実践を積み重ねていく必要があります。またさらに、それら地域ごとの実践が相互に連帯することで、この国に実体的かつ強靭な経済的・社会的基盤を創り出すことが可能となります。
         
        幸い新潟は、豊かな自然に恵まれています。私たちは、ここ新潟でも「市民エネルギー」の試みをスタートさせる必要性を確認し合いました。年齢、職業、信条、関心などにおいてきわめて広範な市民が多数集まり、新潟における「市民エネルギー」の可能性について今日まで協議を積み重ねてきました。その結果、私たちは、このような広範な参加者がエネルギーや地域社会のあり方に関して恒常的に協議する場がきわめて重要であることも再確認しました。
         
        このような経緯から、今日ここに私たちは、新潟の自然や伝統を活かしつつ、未来世代のいのちが尊重される新しい地域社会の姿を実現するため、「一般社団法人 おらってにいがた市民エネルギー協議会」の設立を宣言したいと思います。
         
         
        平成26年(2014年)1221
         
        おらってにいがた市民エネルギー協議会
        発起人一同
         
        | 佐々木寛 | - | 23:49 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
        マララさんと日本国憲法第9条をつなぐ論理――真の「革命」について
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          今年のノーベル平和賞は、マララさんに決まったようです。ノーベル平和賞ですから、例のごとく政治的な計算があったり、欧米の価値観の押しつけと批判する向きもあるようですが、ノーベル委員会はとても良い選択をしたと思います。

          日本国憲法第9条も候補にあったようなので今回は残念ですが、やはり9条の理念を謳うだけでなく、その理念の実現に向けてどの程度の努力がなされてきたのかという点で考えれば、今回は落選やむなしというところかもしれません。来年以降の受賞は、これからの日本の私たちの努力次第だと思います。

          マララさんが指摘するように、すべての女性(とくに若い女性)は、まず正当な教育を受ける権利をもっています。この地球上のさまざまな矛盾を克服するための鍵の一つは、これら貧しい地域に生きる女性たちの「覚醒」であることは疑いえません。

          加えて、特に比較的豊かな国に住む市民にもできることがあります。それは、自らが寄って立つ植民地主義的な世界との関係をできるだけ縮小し、そのために自らが可能な限り自立的(自律的)な生活を目指すということです。まさにガンジーが目指した自立的(自律的)世界こそ、植民地主義をこえる唯一の道です。

          地球上のあらゆる地域に住む女性たちが目覚め、疲れ果てた「文明人」たち(主として男たち)がこれまでの生き方を見直し、新しい「文明」を模索し始める。いずれも、少しずつ、静かに進行する真の「革命」への道です。

          この真の「革命」への道は、また、遠くから聞こえてくる<他者>の声を聴くことから始まるでしょう。それは、既存の権力が、すでに人々の声を聴くための能力を失ってしまっているからです。耳をすませば、真の「革命」の胎動が聞こえてきます。

          誰の眼にも明らかなように、競い合い、奪い合う「文明」は、もう終わりを迎えつつあります。これも徐々に進行しています。この矛盾は多くの人にとって耐え難いレベルにまで達しています。そろそろ人類は、これとは異なる「文明」を創りだす必要があります。

          競い合い、奪い合う「文明」とは異なる、共に分かち合い、助け合う「文明」。きれいごとでしょうか。しかし、現代における真の「革命」とは、この前者の「文明」から後者の「文明」への移行にほかなりません。逆に、この移行に関わるすべての人間的試みは、すべて「革命的」であると言えるでしょう。

          マララさんにならって、世界中の少女たちの自立(自律)と私たちの自立(自律)とをつなげる道を考えましょう。それは私たちと世界との関係をつなぎ直すことを意味します。日本国憲法第9条は、世界を非暴力によって構成するよう命じていますが、それも私たちと世界との関係のつなぎ直しです。無理なことでしょうか。しかし少なくとも、マララさんはその「無理」なことを自らの命をかけてでも実現しようとしています。ノーベル委員会はそのことを応援しようとしました。私たちには何ができるでしょうか。

          私たちは、これから訪れる真の「革命」の担い手になれるでしょうか。しかしそれは、私たちのごく身近なところから始めることがきるし、決して不可能なことではないように思えます。
          | 佐々木寛 | - | 01:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
          新潟から市民発電
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            先日(9月23日)、新潟の市民発電のキックオフ集会を開催しました(下写真)。

            約280名の参加者で会場も満員。テレビも新聞もきてくださいました。

            新潟で市民発電をやる意味は、まず新潟が<自立>のための豊かなエネルギー資源の宝庫だという事実に求めることができます。かつて内村鑑三は、『デンマルク国の話』という講演(1911年)の中で「しかしてエネルギーは太陽の光線にもあります、海の波涛にもあります、吹く風にもあります、噴火する火山にもあります。もしこれを利用するを得ますればこれらはことごとくみな富源であります。…外に拡がらんとするよりは内を開発すべきであります。」と語りましたが、まさにこの「内発的開発」の可能性を、新潟には多く認めることができます。

            また、新潟には世界最大の原子力発電所があるという事実も、新潟で再生可能エネルギーをすすめることの意義を大きくするでしょう。東京=太平洋沿岸を中心に近代化と高度成長を遂げた日本で、新潟はかつて「裏日本」と呼ばれましたが、そのことと原子力発電所の建設には深い関係がありました。来るべき時代は、東アジアに面した新潟こそが「表日本」として自立し、またその自立を実現するエネルギーのあり方も冷戦期を彩った<核エネルギー>から、新時代にふさわしい新エネルギーへと移行していくことが望ましいと思います。これから紆余曲折の長い道のりがはじまりますが、歴史的には遅かれ早かれ人類はこの方向に進むしかありません。苦労や面倒なこともたくさんあるでしょうが、何より仲間たちと楽しくやっていきたいと思っています。

            いずれにせよ、2014年9月23日は、新潟にとってまさに歴史的な日となりました。


            | 佐々木寛 | - | 01:59 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
            始動。新潟市民発電
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              この間、今年に入ってずっと準備をしてきた新潟の市民発電の試みが、ようやく最初のキックオフ集会を迎えつつあります。チラシも地元のアーティストの力添えで完成しました(下写真)。



              「おらって」とは、新潟弁で「私たちの」という意味です。つまり、「私たちの電気をつくろう」という意味です。
              そして、新潟の市民発電の理念は、以下の通りです。準備会のみんなで議論し、それを元に私が原案をつくり、みんなで決めました。この宣言は、運動が拡大するにつれて、主文の下にある「私たちが目指すもの」に次々と新しい内容が加わるようになっています。「宣言」としたのは、ちょうどマルクスの『共産主義者宣言』を読んでいたことと無関係ではありません。21世紀のラディカル・ポリティクスの「宣言」として書いたつもりです。

              実際に行動をしながら、現代の社会科学(学問)にとっても最先端の内容がつまったできごとが次々と生起するので、驚きの毎日です。このブログでも、その概要をお伝えしようと思います。

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              にいがた市民発電宣言
               
               私たちは、豊かな自然に恵まれたここ新潟の地から、次世代の新しい社会のあり方を模索し、実現するために、市民による発電事業を開始することを決めました。
               この事業を通じて私たちは、自らエネルギーのあり方を考え、実践するのみならず、地域の食、農、自然、伝統、歴史を活かし、未来の世代のための新しい地域の姿を新潟から創りだしたいと思います。
                
              〜 私たちが目指すもの 〜
               
              ●新潟の未来世代のいのちが尊重され、守られる持続可能な地域社会の実現
               
              ●水・里山・農など新潟の豊かな自然を活かした多様なエネルギー資源の活用
               
              ●広範な市民の参加や実践、熟議の場の創出
               
              ●市民・行政・専門家の新しい協働のかたち
               
              ●新たな雇用創出などによる、活き活きとした地域経済の実現
               
              ●環境教育や市民研究会などによる、省エネ文化の普及や、新たなライフスタイルの模索
               
              ●新潟の歴史的遺産の再発見と、若者が誇りをもって生きられる地域社会の実現
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              | 佐々木寛 | - | 17:20 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
              マルクスの取り組んだテーマはやっぱり普遍的だったということについて
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                若い人たちとの読書会で、マルクスの『共産主義者宣言』(平凡社ライブラリー)を再読しました。

                自分が若い頃から何度も読んできた本です。しかし残念ながら、読むたびにその内容を忘れ、読んでみてはまた忘れるの繰り返しでした。概して、マルクスの翻訳本は苦手のひとつです。

                けれども、この平凡社版は、そのタイトルでもわかるように、テキストの真意をくんで極力わかりやすい訳になっているので助かりました。また今回は「文明論」の観点から読んだので、いろいろな発見もありました。巻末の柄谷行人さんの解説も腑に落ちました。

                当時(彼が29歳の時です!)のマルクス思想の限界もよくわかりましたが、その欠落や時代的制約性をこえて、彼の格闘したテーマの普遍性を再認識しました。彼の主張はある意味シンプルで、資本主義的な私的所有制度そのものを変革しない限り、本当の人間解放は訪れないということです。

                マルクスはグローバル化の基本的な論理を理解していましたし、それがもたらす社会の姿についても的確な見通しをもっていました。

                「かれら(ブルジョア階級)はすべての民族に、いわゆる文明を自国に輸入することを、すなわち、ブルジョア階級になることを強制する」、「ブルジョアが執着する文化とは、大多数の人間にとっては、機械となるための教化でしかない。」「何故そうなって(恐慌が起こって)しまうのか? 社会に文明がありすぎ、生活手段がありすぎ、工業がありすぎ、商業がありすぎるからだ。社会が自由にすることのできる生産力は、もはやブルジョア的文明およびブルジョア的所有関係の促進には役立たない。」…

                マルクスにとって「文明」とは、まさにブルジョアが作り出すものにほかならず、歴史の中で乗り越えられるべきものでした。しかし、逆に言えば、ブルジョア文明を克服した世界にこそ、人類にとって真の「文明」があるのだと言い替えることもできるかもしれません。

                この本の後半でマルクスが否定する、「共産主義」と似て非なるものたちは、空想的社会主義や保守的社会主義も含め、どれもその社会変革が不徹底であるがゆえに、おのずと歴史的限界をもっているということになります。「人間の顔をした資本主義」と「空想的社会主義」との間に現況を突破するためのヒントがあると思っている私としては、サン=シモン、フーリエ、オーウェンといった思想家たちは、今こそ再読・再評価するべきだと思っていますが、マルクスの「共産主義」にとっては(ある程度は評価をしながらも)まだまだ不十分なのです。

                しかし、資本主義、すなわち私的所有関係の根源にまで変革の力を及ぼすことなしに真の革命や人間解放はないという彼の指摘は、やはり正しいと思います。最近、トマ・ピケティやセルジュ・ラトゥーシュなど、このマルクスの取り組んだ大テーマを再び正面から取り上げようとする思想家が注目されていますが、時代がそれを要請しているのだと思います。次の問題は、「それをどう実現するのか」という<方法>の問題にほかなりません。


                | 佐々木寛 | - | 02:57 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                「社会主義文明国家」
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                   北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は、2013年9月4日付の『労働新聞』で、「社会主義文明国家」の建設を謳っているそうです。この場合の「文明」とは何か、が私の関心事です。以下、「自主・平和・親善のために」というブログからの引用です(http://blog.livedoor.jp/tabakusoru/)。

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                  【平壌9月4日発朝鮮中央通信】4日付の「労働新聞」は社説で、こぞって朝鮮労働党の指導に従って社会主義文明国の建設に一斉に奮い立ち、わが祖国を世界がうらやむ文化的で発展した国、チュチェの社会主義強盛国家に輝かしていこうとアピールした。同紙は、われわれが建設する社会主義文明国は全人民が高い文化知識と健康な体力、高尚な道徳品性を身につけて最も文化的な条件と環境で社会主義文化生活を思う存分享受し、全社会に美しくて健全な生活気風が満ち溢れる国であるとし、次のように指摘した。
                    人民の理想と念願が実現された国、主体性と民族性が実現され、社会主義社会の本来の要求が徹底的に具現された国がすなわち、われわれの社会主義文明国である。最も優れた社会主義制度と長い歴史的闘争の中でもたらされた豊富な経験と土台は、社会主義文明国建設の力強い推進力である。われわれの社会主義は、人民大衆がすべての主人となり、社会のすべてが人民大衆のために奉仕する人民大衆中心の社会主義である。わが国では、党と国家のすべての活動が人民の生活向上に志向されている。全般的無料義務教育制、無料治療制が実施され、文学・芸術とスポーツをはじめ、あらゆる文化分野が人々を自主的な思想意識と高い文化知識、健康な体力と高尚な道徳品性を身につけた全面的に発展した人間に育成するのに奉仕している。わが人民は、富強祖国の建設のための長久の歴史的闘争の中で自分のものを重んじ、自分の力を一番信じる精神を培い、絶えず新しいものを志向して疾走し続ける革新と飛躍の豊富な経験を積んだ。その日々に、学校と病院、劇場をはじめ文化的富が数多く増え、文明国建設の強固な物質的・技術的土台が築かれた。
                    同紙は、革命性と創造精神が強く、並外れた英知と才能を身につけた人民がおり、底知れない潜在力があるので、われわれの強盛国家建設偉業が活力を帯びて前進しているのであると強調した。
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                   ある政治体制が「理想」を語るとき、それが純粋であればあるほど、その背後の権力性や矛盾についてしっかりと注意をして考える必要がありますが、この場合も例外ではないでしょう。けれども、今、北朝鮮の体制が何を目指そうとしているのかについて、この「社会主義文明国家」ということばは多くを語っている気もします。単なる「社会主義国家」と「社会主義<文明>国家」とは何が違うのか。おそらく、「文明」ということばにこめられた意味は、「人民の生活向上」という一言に集約されているように思えます。

                   実際は、国内の財政問題や貧困問題がかなり切迫しているはずですが、スキー場をつくったり、遊園地をつくったり、ゴルフ場をつくったりするのは、おそらく北朝鮮政府が、海外先進諸国の庶民の普通の消費生活を国内に実現(あるいは少なくとも演出)しようとしているからでしょう。つまり、グローバル化の波は、北朝鮮にも例外なく及んでいると言えそうです。

                   「文明」が主として「人民の生活向上」を意味するとすれば(この場合の「人民」はだれを指すのかという問題は置いておくとしても)、この「生活向上」が何を意味するのかについては考えておく必要があります。実際、ここで謳われている「生活向上」とは、人民がスキーをし、遊園地で遊び、ゴルフをすることが普通にできるようになることを意味するように思えます。しかしもし本当にそうだとすれば、ここでの「文明」概念は、単に資本主義諸国の消費文化や商品経済と同義であり、ちっとも新しくはないということです。

                   この「社会主義文明国家」を謳う隣国に対して、私たちはどう向き合えばいいでしょうか。それが悲惨なパロディのように見える人は、しかしその悲劇をつくりだしたのは、まさしく日本の植民地主義だったということを忘れるべきではないでしょう。日本の近代化もかつて「文明」を目指しました。そして隣の最貧の核保有国も今また、グローバル資本主義という「文明」を追い求めています。問題は「文明」概念の中身であり、そこにこれまでとは異なる新しい内容を注ぎ込むことができるかどうかなのだと思いますが、そのための真の想像力を、東アジア地域にまだ十分確認することができずにいます。

                   
                  | 佐々木寛 | - | 01:25 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                  コミュニティを奪われた人々――アチェ訪問から考える 
                  0
                    スマトラ島沖地震によってアチェに津波が襲ったのは、2004年12月。ですから、もう10年が経とうとしています。アチェ州では約20万人が死亡または行方不明になったということで、被害者数という点で見てもその惨事の規模がわかります。

                    悲惨な経験をどう乗り越えるか、というのは文化や地域によっても対応が異なると思いますが、アチェの場合、人々は思いの他たくましく克服しているようにも見えました。下の写真は、津波によって内陸まで流された大きな船を残し、いわば観光スポットとして再利用している例です。看板には、「ウェルカム」と書かれていて、どことなく明るい感じです。2枚目の写真のように、周辺にはお土産屋さんもたくさんあり、被害当時の映像DVDも売っていました。木の向こうには、船とその煙突が見えます。




                    次に、津波博物館。国際援助によってつくられたそうです。あまりの立派さに、驚きました。2枚目の写真のように宗教的な慰霊のための空間もあり、建築としては先端を走る印象を受けました。けれども、災害の経験を後世に伝えることがいかに困難なことであるのかも痛感しました。ミニチュア模型などで当時の津波の大きさや被害を再現していましたが、むしろそれが被害のリアリティを削いでいるようにも感じました。アチェの歴史の概略なども展示されているのはよかったです(最後の写真)。






                    被災から10年のアチェで考えました。東日本大震災から丸3年が経ちましたが、日本ではあと7年後、どのような経験として「3・11」は記憶されるのでしょうか。一部の若い「文化人」たちが提案するように、東北は観光地として再生するのでしょうか。あるいは、アチェの津波博物館のような巨大な記念館が建つのでしょうか。あるいは、ついに撤去されたあの気仙沼の船のように、当時の痕跡は極力すべてが取り払われるのでしょうか。

                    どれも違う気がするのです。


                     
                    | 佐々木寛 | - | 23:11 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                    コミュニティを奪われた人々――アチェ訪問から考える 
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                      アチェの人々について考えるということはどういうことか…。彼らは、津波、内戦といった幾重にも重なる苦しみや抑圧を受けてきました。しかし「開発」もまた、彼らの苦しみの層のひとつを形成してきたということは、忘れてはなりません。しかもこの「層」は、人々の苦しみのもっとも基層をなしているとも言えます。

                      次に訪れたチョッ・マンボン集落は、日本の政府開発援助(ODA)で土地が収用された人々がひっそりと暮らす村でした。1977年に日本ASEAN首脳会議で尿素肥料工場建設が決まり、もともと漁民だった彼らは、415世帯が内陸部に移住することになりました。しかし行ってみると、約束されていた田畑も6か月間の支援もなく、彼らは山奥で何十年も見捨てらたまま生きることを強いられたということです。現在、16世帯。その子どもたちの家も入れると約30軒の村でした。

                      下の写真は、マタン・スリメンよりもずっと粗末な集会所です。ここで多くの村人と交流しましたが、参加者が床いっぱいに座ったので、壊れないかと心配でした。



                      ひとりの女性(60歳)が言うには、村の今一番の問題は、きれいな水がないということだそうです。川の水は汚れていて、しかも遠い。海外の支援でできた一軒の家の井戸を見せてもらいましたが、その水も写真のような色で、量も足りません。



                      下の写真は、その井戸があったお宅です。このお宅は、移住当時の面影を残した家だそうで、快く見せていただきました。庭で胡椒などのさまざまな作物を栽培していて、そのたくましい暮らしぶりが印象に残っています。けれども、そもそも漁民が山奥での暮らしを強いられたわけですから、その苦労は想像を超えます。その下は、村の雑貨屋兼、喫茶店(だと思います)。ここでおいしいコーヒーもごちそうになりました。止まったようなゆっくりした時間は、「貧しい」村にあって私たちには普段持つことが難しい「豊か」な時間でした。





                      ODAや日本企業の進出による住民の排除や環境被害については、すでに多くの報告がなされていますが、Sさんの案内で、同じような土地収用でできた同地域のアルン液化天然ガス(LNG)社やイスカンダル・ムダ肥料工場などを眺めていると、途上国における資源開発現場の政治がもつ共通性が浮かび上がってきます。ありていに言えば、日本政府や日本企業と途上国権威主義体制(軍)との共犯関係によって、国内の少数者や弱者が弾圧され、抑圧されるという構造です。

                      下の写真で海岸の向こうに見えるのは、日本のODAで建設されたアルン社です。もう天然ガスが枯渇しつつあるので、将来この美しい海岸に残されるのは、プラントの廃墟だけになるかもしれません。インドネシアのLNGのほとんどは日本に輸出され、日本の天然ガス総輸入量の約3割はインドネシアに依存しています。これまで日本は、世界中から天然資源をかき集めて「豊かな」生活を維持してきました。そのつめ跡が世界中に残っているわけです。

                      新しい<文明>を考えるとき、それはもはや一国単位の枠組みではまったく不十分であることがわかります。そしてその中心的な争点として、何よりも<エネルギー>の問題があることも、次第にだれの目にも明らかになりつつあります。


                       
                      | 佐々木寛 | - | 15:21 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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