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〜 <文明>の新しいかたちを求めて 〜 ( 佐々木寛のブログ )

希望の政治学読本 
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    またしても、多忙を言い訳に3か月ぶりの投稿です。

     

    おかげさまで初めての選挙に勝利し(!)、しかし歓喜にひたる十分な暇もなく、疲れが出たのか夏風邪をひいていたところ、『日刊ゲンダイ』に毎週水曜日に書評を連載することになりました。シリーズのテーマは「希望の政治学」。ですから、このブログの趣旨とほぼ同じです。それでここには、すでに活字になった原稿を随時掲載することにします。

     

    第1回目は、柄谷行人さんの新刊です。

     

    柄谷行人『憲法の無意識』(岩波書店) 760

     

     参院選が終わり、自公政権が「圧勝」だったというマスメディアの報道は、はたして本当だったのだろうか。結果をつぶさに見れば、現政権の「終わりの始まり」を看てとることはできないか。少なくとも、「改憲」へのゴーサインが出たという総括には無理がある。

    選挙期間中、現政権は極力「改憲」を争点化しないように努めた。しかし選挙後には、予想通り、「承認が得られた」として着々とその手続きを進めようとしている。くり返されるそのような政治手法に、当の国民もいくらなんでもおかしいと思い始めている。今後いずれにせよ、都知事選や衆院選を迎える中で、安倍政権下の政治では、ますますこの国家の構成原理=憲法をめぐる問題が争点となるだろう。

     しかし本書を読めば、安倍政権の目論見がそれほど簡単ではないことがわかる。それは、日本国憲法九条の枠組みが、日本人の(徳川時代にもつながる)歴史的な「無意識」に根差すもので、それが常に超越的に現実社会を規制するからだ。著者によれば、九条は憲法の条文である以上に、日本の「文化」(超自我)である。したがってこの原理に反すれば、いかなる政治権力もその足場を失うことになる。さらにこの「文化」は、世界史上の無数の平和思想から「贈与」されたという普遍的経緯を有しており、その意味で、憲法が「押し付けであったかどうか」という議論はきわめて皮相的なものとなる。

     本書は、「九条があれば安心」というタイプの条文信仰の議論を排し、いわば「九条の血肉」を明らかにし、そのリアルな普遍性を再確定しようとする。「改憲派」であろうと「護憲派」であろうと、憲法議論は少なくとも本書が到達した地平から出発すべきだろう。すなわち、日本の「改憲」問題の中心にはしっかりと九条の問題が鎮座しているという政治的事実。そしてそれが「押し付けられた」がゆえに普遍性をもっているという政治的事実である。

     

    | 佐々木寛 | - | 08:35 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
    「新しい政治」について
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      また前の投稿から時間が経ってしまいました…。

      この間、夏の参院選に向けて、今私が住んでいる新潟で「野党統一候補」を実現すべく、「市民連合@新潟」の共同代表として奮闘していました。「市民連合@新潟」は昨年12月に立ち上げたので、この活動はもう約4か月になります。

      いろいろありました。未知の体験ばかりでした。政治学者の端くれであるにもかかわらず、選挙や政党の内側にある生々しい実像も、ちゃんとわかっていなかったのだと思います。勉強になりました。

      正直、これまで「選挙」自体には、他の政治的な争点に比べて元来あまり高い関心があったわけではありません。けれども、近年特に「一度選挙で勝てば何をやってもいい」と言わんばかりの傍若無人な政権が暴れまわっているので、さすがに次の選挙ではくさびを打っておかなければならないと、一人の市民として重い腰をあげたわけです。

      幸い、新潟では、いくつもの偶然と関係者の努力によって、民進党・共産党・社民党・生活の党・新社会党・みどりの党の野党6党が推薦する野党統一候補が実現できそうです。手前味噌になりますが、これほど包括的な野党統一候補で、かつ市民連合がその共通の場づくりに活躍した例は、全国でも稀だと思います。

      全国でも進む「野党統一候補」運動の最大の功労者は、明らかに共産党です。志位和夫は今、永田町で一番光っている政治家だと言えるでしょう。しかし、影の功労者は、皮肉にも、歴史上例を見ない程に分かり易く国民を愚弄し続けた安倍晋三かもしれません。野党を結束させたのは、他でもなく与党の強権政治自体だったと言えます。

      野党(Opposition)は、文字通り、「与党に対抗する力」です。言葉を変えて言えば、「公的異議申し立て」の力です。それはデモクラシーにとって不可欠の条件です。それがなくなると、社会は全体主義に向かいます。今回の新潟も含めた「市民連合」の試みが持つ意味は、まさにこの「Opposition」の機能を社会に回復させることにあると、私は思っています。

      全ての絶対的政治権力は絶対に腐敗する…。それは歴史の法則です。生命が常に新陳代謝をするように、政治権力も常に非権力者にチェックされ、相対化されなければ、社会は健全に存続できません。定期的に行われる選挙はそのためにあります。また、ひとりの市民も、その永続的な「Opposition」を形成するために、政治権力からまったく「自由」であるわけにはいきません。ここが重要です。自らが政治権力から免れていると思う事は、実は、政治権力の恰好の餌食になることでもあるからです。

      さて、政治がしょせん「悪さ加減の選択」だとしても、市民が積極的に選挙活動に関わるという事は、この国ではなぜかあまり良く思われていません。「市民連合@新潟」でも、今そのジレンマに悩まされています。統一候補を誕生させ、いわばそれで終わってもいいのですが、本当に「Opposition」の機能を社会に回復させるためには、その候補を現実に当選させる必要があります。M.ウェーバーの「責任倫理」というやつです。政治は結果がすべて…。良心に基づいて一生懸命やっても、結果がダメなら政治的には意味がありません。この宿命もまた、市民が共有しなければなりません。「きれいな市民」「イノセントな市民」は理念型としては存在しても、現実の政治的実践においては、そんなに簡単にはありえません。

      「3・11」後、この国では、これまでデモにも行ったことがなかったような人たちが大勢、国会前や公園や広場で「公的異議申し立て」を日常的に行うようになりました。それは否定しようもなく、この国のデモクラシーが一歩前進した証です。長年の「おまかせ政治」の限界が明らかになっているわけです。さらに、こういった自分の生活・生命・社会のあり方を、自分の言葉で考え、表現しようとする人々が、今度は選挙という制度的デモクラシーの場においても積極的に発信し、社会的対話を積み重ねるようになっています。もちろん、何でも「参加」すればいいってもんじゃありません。いつも政治権力に対しては、注意深く接する必要があります。

      しかし、「観客=評論家」としての市民だけがいくら居ても、結果的にデモクラシーは発展しないどころか、むしろそれを劣化させてしまうことが、だんだんと明らかになりつつあります。「デタッチメント」ではなく、「関与し、まみれる市民」。まみれて、衝突し、そして「学び合う市民」。「闘争」に参加することは、必ずしも平和に反する事ではありません。戦争や大規模な暴力を回避するために日常的に「闘う」ことがいかに重要か、「和」を好む日本人の私たちは、特により強く自覚する必要があると思います。

      「新しい政治」といっても、古くて新しいことを、何度も何度も再発見することでしかありません。そしてその「発見」は、いつの時代も、生(なま)の政治状況の中で、その試行錯誤の中でのみ可能となります。たとえば、「選挙は選挙のプロがやる」という常識をまずくつがえす必要があります。選挙もまた、市民の深い教養や身のこなし、文化の一部として実行されなければなりません。いわば、「選挙を民主化する」わけです。

      新潟でも、日本でも、この新しい市民政治はまだ始まったばかりです。これからたくさん躓(つまづ)きながらも、デモクラシーが成熟する長い道程の基礎を築くことができると信じています。かつての先人たちも、勇気をもってそれを為し遂げましたが、私たちもそれに倣おうと思います。

       
      | 佐々木寛 | - | 01:52 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
      地方金融の小さな革命
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        また本当に久しぶりのブログ執筆です。更新がなされないものの、意外にも全国のどこかで読んでいただけることもあるようで、このブログがきっかけでいくつか講演も依頼されるようになりました。<文明>の新しいかたちを求めて、日々の思考の切れ端を、途切れながらも地道に書き記していこうと思います。今日は、地方金融の話です。

        先日、私が関わっている新潟の市民エネルギーの試み(おらってにいがた市民エネルギー協議会)が保有する子会社(おらって市民エネルギー株式会社)が、地元の第四銀行から、2億4600万円の融資を受けることが決定しました(詳細は、https://www.daishi-bank.co.jp/release/pdf/160120-3293.pdf)。現在建設中の約1000kwの太陽光発電事業に対する融資です。

        もう公表しても良いと思うのですが、なんと連帯保証人もパネルの担保も取らない融資で、15年間1.85%の固定金利です。

        第四銀行は、全国の地銀の中でもおそらくもっとも「保守的」な銀行のひとつであると思いますが、その意味では「歴史的快挙」といっても過言ではないと思います。第四銀行の歴史のみならず、おそらく新潟の金融の歴史の中でも画期的な出来事であったと思います。

        もちろん、現在危機に瀕する地銀が今後も地域で生き残っていくためには、地域にお金が循環するこのような事業に積極的に関与していく姿勢が不可欠になっています。また、私たちの事業は、「パートナーシップ協定」による行政(新潟市)との包括的な協力関係もあり、事業の公益性が高いことも、融資の大きな追い風になったと思います。

        しかし、この間の経験で学んだことは、このような金融やお金の世界も、実は「数字」だけでなく、それよりも「人」のファクターが決定的に重要であるということです。銀行融資担当の若く優秀なメンバーたちは、事業の可能性や理念を理解すると、これまでに例のない複雑な案件であるにもかかわらず、審査部に対して粘り強い交渉を繰り返し行ってくださいました。私見では、彼らは通常の仕事よりは半歩か一歩ぐらいははみ出しながら、事に当たっていたと思います。最終的に私たちは、「銀行担当者とお客様」という関係よりも、若干「同志」ともいえるような関係で事を成したという実感もありました。

        まだご本人たちに確かめたわけではありませんが、「新潟(の未来)のため、一肌脱いでください」、という呼びかけに、彼らも応えてくれたのだと思います。この市民エネルギーの活動全般に言えることですが、このような銀行の方々のみならず、市役所の職員の方々、地元施工業者の方々、マスメディアの方々などなど、どの職業人も「自分が生活し、子どもや孫が生きる地域のために」、半歩か一歩、自分のルーティーンを少しだけはみ出して協力してくださっています。この「ほんの少しだけはみ出した人々」の連鎖こそが、「おらって」の推進力の秘密であると感じます。

        タイトルにある地方金融の「革命」というと少々おおげさかもしれませんが、私が経験した小さな革命の大きな可能性について、書き記しておこうと思います。地方で生み出された財やお金が地方を真に豊かにするために循環する構造をつくりだすこと。そのためには、これまでのように中央や上からの既定路線ではなく、下から生成する小さな新しい可能性に賭ける勇気をもつことが必要です。そして何より、それを推進する力は、最終的には個々の「人」に他ならないという真実を再確認することが大切だと思います。

         
        | 佐々木寛 | - | 04:36 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
        市民エネルギーという先端――新しい「発展」と「安全」を求めて
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          またまた本当に久しぶりの投稿です。「多忙」は言い訳になりませんが、本当に多忙を極めていました。気がついてみれば約6か月ぶりです。

          世の中は、安全保障をめぐる問題、経済政策をめぐる問題について、それぞれ大きな意見の断裂が見られますが、まずはどちらの問題も深く相互につながっているという事実から出発する必要があると思います。

          国際連合は創立70周年にして「持続可能な発展のための目標(SDGs)」を掲げ、ようやく地球的問題群の各分野に深い相互関係があってそれらを包括的に把握して取り組む必要性(“知のプラットフォーム”)を訴えていますが(https://sustainabledevelopment.un.org/)、グローバル化の時代には、一国の問題も全部相互につながっています。

          安倍政権の安保政策も経済政策も「この道しかない」というわけですが、それは憲法の平和主義という戦後の約束を違えてでも、世界中で自在に軍事行動のできる軍隊を備え、たとえ兵器や原発の売買に手を染めてでも、あのかつてのような経済成長をもう一度、という極端(かつ時代錯誤、かつ非現実的)なものです。一方、それがあまりにムチャなので、国民的な反対運動が巻き起こっていますが、それは「この道しかない」というその道の先には、どう考えても展望がないからです。

          しかし、それじゃ「この道」以外の道はあるのか、ということが問題なのですが、経済成長や発展そのものを否定する、あるいは安全保障政策を考えることもいっさい止めるというわけにはいきません。ややもすると、今の政権に反対の立場の人の中には、そういった主張をする人も散見できます。しかし私の判断では、「経済発展」と「安全の保障」は、国民や市民にとっても最重要の問題として何らかの「答え」を出す必要があります。問題は、「もうひとつの異なったタイプの“発展”」や「本当の意味における“安全“」を構想できるか、という一点にあるように思えます。

          日米安保への従属は止めるべき、原発の再稼働は止めるべき、TPPへの参加は止めるべきだとして、「発展」や「安全」をどのように実現するかを真剣に考える必要があります。私にとって市民エネルギーの試みは、「新しい発展」と「新しい安全」を模索するための、もっとも有望な道筋にほかなりません。

          市民エネルギーの試みは、「成長」や「発展」を否定しません。ただ、これまでのGDP優先主義や生産力主義、効率優先主義とは異なる原理を模索します。つまり、「成長」や「発展」の再定義を行います。市場やお金も否定しません。それらは健全に機能するなら、自由な社会に不可欠だからです。しかし、現在のような怪物化した非人間的な市場や金融を否定します。人間にとっての人間のための人間の顔をした経済を目指します。

          また市民エネルギーの試みは、「保守」の思想を否定しません。つまり、「安全」や「伝統」を重視します。しかし、現在のような「保守」の名を借りた事実上の社会の破壊について強く反対します。「強いものだけが生き残る」という社会は、実は弱い社会です。軍事同盟や軍事力に依存する安全もきわめて脆い。多くの脅威から家族や仲間、郷土を守るのは本当は何であるのかを真剣に考えます。

          そしてまた、市民エネルギーの試みは、生活や社会の礎であるエネルギーを媒介に、あらゆる境界を越えて展開します。強靭で自立した個々のコミュニティが相互に助け合う、グローバルなネットワーク社会を構築します。そしてそれは、開かれた社会と新しいデモクラシーの実験場となるにちがいありません。

          どうでしょう。確かに、私は<夢>を見ています。しかし、こんなにも手ごたえのある<夢>を見るのは初めての事です。
          どうかいっしょに<夢>を見ませんか?

           
          | 佐々木寛 | - | 00:08 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
          文明 タイプ0
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            本当に久しぶりの投稿です。市民エネルギープロジェクトで多忙を極めていました。

            このプロジェクトについての省察は、またおいおい投稿できればと思います。今回は、宇宙論からのお話し。

            たまたま宇宙理論の話をテレビを観ていたら、「並行宇宙」や「暗黒物質」、「超弦理論」などの最先端の話に加え、コントロールできるエネルギーの種類と規模で「文明」を分類できるという興味深い話もでてきました。それによると、「文明」は、タイプ機兵分の惑星のエネルギーを気象等も含めすべてコントロール)、タイプ供兵分の惑星と恒星のエネルギーをコントロール+自分以外の惑星に一部植民地も建設)、タイプ掘兵分が所属する銀河系のエネルギーすべてをコントロール)があるということになるそうです。もちろん、私たちの「文明」はタイプ気砲眛呂ず、「タイプ0」にとどまっています。私たちの「文明」がタイプ兇筬靴砲覆襪砲蓮⊃兆年かかるかもしれません。とにかく話のスケールが巨大で、その点さすが宇宙理論です。

            けれども、良く考えると、こういった「文明」観自体が古いパラダイムに依拠しているのではないか、とも思います。そもそも「自分の惑星のエネルギーをすべてコントロールする」「植民地をつくる」という発想自体が、モダニズムの範疇を出ない気がします。タイプ兇播仂譴垢襦崑斥曄廚...エネルギーを拝借しつつ、タイプ気良饌罎任△誅農韻亮然環境の中で、そのエネルギーもむしろ「受け身で」活用していくというパッシブな「文明」は、「文明」のタイプとしては進歩ではなく退化に当たるのでしょうか。

            もし宇宙のどこかにきわめて長く持続し、高度に発達した「文明」があるとすれば、それはどんな「文明」でしょうか。自然科学者から見ると、それは宇宙のきわめて広範なエネルギーを支配する巨大文明ということになるのかもしれません。確かに、宇宙人が地球人の「文明」を見た時に、「まるでアリがアリ塚をつくっているように見える」、「アリに原子力をあげるから、女王アリに会わせてほしいと言わないように、宇宙人も私たちに無関心である」のかもしれません。けれども、違う考え方も可能です。何千万年、何兆年も続く「文明」がもし存在するとすれば、それは自己の限界を十分に理解し、宇宙と調和しながら生き続けることを選択した「文明」なのかもしれません。そう考えれば、スターウォーズのようなイケイケの「文明」像ではなく、逆に思いのほか地味な「文明」像が浮かび上がってくるかもしれません。つまり、「アリ塚をバカにするな」、ということです。


            それにしても、50億年経てば、太陽も寿命がきて、地球も太陽に飲み込まれるかもしれません。太陽は超巨大な核廃棄物の塊となるのです。私たちは星屑から生まれて星屑に還る…。すべてには終わりがあるのだということです。
            | 佐々木寛 | - | 10:59 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
            「おらって」にいがた市民エネルギー協議会 設立趣意書
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              設立趣意書
               
              2011311日の東日本大震災とそれにともなう福島の原子力災害は、「天災」あるいは「人災」であると同時に、日本の戦後や近代文明のあり方そのものを問い直す「文明災」とも言われました。またこの災禍は、中央が潤うために地方が負担やリスクを背負うという、中央と地方との不平等な関係も浮き彫りにしました。今まさに私たちは、これまで築いてきた社会のあり方や「豊かさ」そのものを根源から問い直し、未来の世代に引き継ぐための新しい社会のあり方を模索しなければならない時代を迎えていると言えます。
               
              この「新しい社会」は、それぞれの地域の現実に即して市民が自らの力で発案し、創り出す必要があります。またその実現のためには、地域経済、金融、地方行政、消費文化やライフスタイル、あるいは地域の安全保障に至るまで、きわめて包括的な課題に取り組まなければなりません。そこで、このような課題に適切に対応するものとして、現在世界中で注目されているのが、市民によるエネルギー事業(市民エネルギー)の試みです。「文明の血液」とも言えるエネルギーのあり方を、その生産から流通、消費に至るまで、市民自らが考え、実践する「市民エネルギー」の試みは、市民による包括的な社会分野への参加を可能にするため、世界中で民主主義そのものの深化と拡大を促しています。
               
              この「市民エネルギー」の実践は、さらに地域に新たな雇用や財の流れを生み出し、地域の内発的な発展を促します。ヒト・モノ・カネの流れが中央に集中する経済・社会構造を徐々に変更し、真に自立可能な地域への転換を促します。21世紀は中央集権システムが世界中で限界を迎え、真の地方分権や地域の自立が求められる時代となりましたが、地方が実質的な活力をとりもどすためには、中央のみならず、地方自らが創意工夫し、自立のための具体的な実践を積み重ねていく必要があります。またさらに、それら地域ごとの実践が相互に連帯することで、この国に実体的かつ強靭な経済的・社会的基盤を創り出すことが可能となります。
               
              幸い新潟は、豊かな自然に恵まれています。私たちは、ここ新潟でも「市民エネルギー」の試みをスタートさせる必要性を確認し合いました。年齢、職業、信条、関心などにおいてきわめて広範な市民が多数集まり、新潟における「市民エネルギー」の可能性について今日まで協議を積み重ねてきました。その結果、私たちは、このような広範な参加者がエネルギーや地域社会のあり方に関して恒常的に協議する場がきわめて重要であることも再確認しました。
               
              このような経緯から、今日ここに私たちは、新潟の自然や伝統を活かしつつ、未来世代のいのちが尊重される新しい地域社会の姿を実現するため、「一般社団法人 おらってにいがた市民エネルギー協議会」の設立を宣言したいと思います。
               
               
              平成26年(2014年)1221
               
              おらってにいがた市民エネルギー協議会
              発起人一同
               
              | 佐々木寛 | - | 23:49 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
              マララさんと日本国憲法第9条をつなぐ論理――真の「革命」について
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                今年のノーベル平和賞は、マララさんに決まったようです。ノーベル平和賞ですから、例のごとく政治的な計算があったり、欧米の価値観の押しつけと批判する向きもあるようですが、ノーベル委員会はとても良い選択をしたと思います。

                日本国憲法第9条も候補にあったようなので今回は残念ですが、やはり9条の理念を謳うだけでなく、その理念の実現に向けてどの程度の努力がなされてきたのかという点で考えれば、今回は落選やむなしというところかもしれません。来年以降の受賞は、これからの日本の私たちの努力次第だと思います。

                マララさんが指摘するように、すべての女性(とくに若い女性)は、まず正当な教育を受ける権利をもっています。この地球上のさまざまな矛盾を克服するための鍵の一つは、これら貧しい地域に生きる女性たちの「覚醒」であることは疑いえません。

                加えて、特に比較的豊かな国に住む市民にもできることがあります。それは、自らが寄って立つ植民地主義的な世界との関係をできるだけ縮小し、そのために自らが可能な限り自立的(自律的)な生活を目指すということです。まさにガンジーが目指した自立的(自律的)世界こそ、植民地主義をこえる唯一の道です。

                地球上のあらゆる地域に住む女性たちが目覚め、疲れ果てた「文明人」たち(主として男たち)がこれまでの生き方を見直し、新しい「文明」を模索し始める。いずれも、少しずつ、静かに進行する真の「革命」への道です。

                この真の「革命」への道は、また、遠くから聞こえてくる<他者>の声を聴くことから始まるでしょう。それは、既存の権力が、すでに人々の声を聴くための能力を失ってしまっているからです。耳をすませば、真の「革命」の胎動が聞こえてきます。

                誰の眼にも明らかなように、競い合い、奪い合う「文明」は、もう終わりを迎えつつあります。これも徐々に進行しています。この矛盾は多くの人にとって耐え難いレベルにまで達しています。そろそろ人類は、これとは異なる「文明」を創りだす必要があります。

                競い合い、奪い合う「文明」とは異なる、共に分かち合い、助け合う「文明」。きれいごとでしょうか。しかし、現代における真の「革命」とは、この前者の「文明」から後者の「文明」への移行にほかなりません。逆に、この移行に関わるすべての人間的試みは、すべて「革命的」であると言えるでしょう。

                マララさんにならって、世界中の少女たちの自立(自律)と私たちの自立(自律)とをつなげる道を考えましょう。それは私たちと世界との関係をつなぎ直すことを意味します。日本国憲法第9条は、世界を非暴力によって構成するよう命じていますが、それも私たちと世界との関係のつなぎ直しです。無理なことでしょうか。しかし少なくとも、マララさんはその「無理」なことを自らの命をかけてでも実現しようとしています。ノーベル委員会はそのことを応援しようとしました。私たちには何ができるでしょうか。

                私たちは、これから訪れる真の「革命」の担い手になれるでしょうか。しかしそれは、私たちのごく身近なところから始めることがきるし、決して不可能なことではないように思えます。
                | 佐々木寛 | - | 01:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                新潟から市民発電
                0
                  先日(9月23日)、新潟の市民発電のキックオフ集会を開催しました(下写真)。

                  約280名の参加者で会場も満員。テレビも新聞もきてくださいました。

                  新潟で市民発電をやる意味は、まず新潟が<自立>のための豊かなエネルギー資源の宝庫だという事実に求めることができます。かつて内村鑑三は、『デンマルク国の話』という講演(1911年)の中で「しかしてエネルギーは太陽の光線にもあります、海の波涛にもあります、吹く風にもあります、噴火する火山にもあります。もしこれを利用するを得ますればこれらはことごとくみな富源であります。…外に拡がらんとするよりは内を開発すべきであります。」と語りましたが、まさにこの「内発的開発」の可能性を、新潟には多く認めることができます。

                  また、新潟には世界最大の原子力発電所があるという事実も、新潟で再生可能エネルギーをすすめることの意義を大きくするでしょう。東京=太平洋沿岸を中心に近代化と高度成長を遂げた日本で、新潟はかつて「裏日本」と呼ばれましたが、そのことと原子力発電所の建設には深い関係がありました。来るべき時代は、東アジアに面した新潟こそが「表日本」として自立し、またその自立を実現するエネルギーのあり方も冷戦期を彩った<核エネルギー>から、新時代にふさわしい新エネルギーへと移行していくことが望ましいと思います。これから紆余曲折の長い道のりがはじまりますが、歴史的には遅かれ早かれ人類はこの方向に進むしかありません。苦労や面倒なこともたくさんあるでしょうが、何より仲間たちと楽しくやっていきたいと思っています。

                  いずれにせよ、2014年9月23日は、新潟にとってまさに歴史的な日となりました。


                  | 佐々木寛 | - | 01:59 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                  始動。新潟市民発電
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                    この間、今年に入ってずっと準備をしてきた新潟の市民発電の試みが、ようやく最初のキックオフ集会を迎えつつあります。チラシも地元のアーティストの力添えで完成しました(下写真)。



                    「おらって」とは、新潟弁で「私たちの」という意味です。つまり、「私たちの電気をつくろう」という意味です。
                    そして、新潟の市民発電の理念は、以下の通りです。準備会のみんなで議論し、それを元に私が原案をつくり、みんなで決めました。この宣言は、運動が拡大するにつれて、主文の下にある「私たちが目指すもの」に次々と新しい内容が加わるようになっています。「宣言」としたのは、ちょうどマルクスの『共産主義者宣言』を読んでいたことと無関係ではありません。21世紀のラディカル・ポリティクスの「宣言」として書いたつもりです。

                    実際に行動をしながら、現代の社会科学(学問)にとっても最先端の内容がつまったできごとが次々と生起するので、驚きの毎日です。このブログでも、その概要をお伝えしようと思います。

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                    にいがた市民発電宣言
                     
                     私たちは、豊かな自然に恵まれたここ新潟の地から、次世代の新しい社会のあり方を模索し、実現するために、市民による発電事業を開始することを決めました。
                     この事業を通じて私たちは、自らエネルギーのあり方を考え、実践するのみならず、地域の食、農、自然、伝統、歴史を活かし、未来の世代のための新しい地域の姿を新潟から創りだしたいと思います。
                      
                    〜 私たちが目指すもの 〜
                     
                    ●新潟の未来世代のいのちが尊重され、守られる持続可能な地域社会の実現
                     
                    ●水・里山・農など新潟の豊かな自然を活かした多様なエネルギー資源の活用
                     
                    ●広範な市民の参加や実践、熟議の場の創出
                     
                    ●市民・行政・専門家の新しい協働のかたち
                     
                    ●新たな雇用創出などによる、活き活きとした地域経済の実現
                     
                    ●環境教育や市民研究会などによる、省エネ文化の普及や、新たなライフスタイルの模索
                     
                    ●新潟の歴史的遺産の再発見と、若者が誇りをもって生きられる地域社会の実現
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                    | 佐々木寛 | - | 17:20 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                    マルクスの取り組んだテーマはやっぱり普遍的だったということについて
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                      若い人たちとの読書会で、マルクスの『共産主義者宣言』(平凡社ライブラリー)を再読しました。

                      自分が若い頃から何度も読んできた本です。しかし残念ながら、読むたびにその内容を忘れ、読んでみてはまた忘れるの繰り返しでした。概して、マルクスの翻訳本は苦手のひとつです。

                      けれども、この平凡社版は、そのタイトルでもわかるように、テキストの真意をくんで極力わかりやすい訳になっているので助かりました。また今回は「文明論」の観点から読んだので、いろいろな発見もありました。巻末の柄谷行人さんの解説も腑に落ちました。

                      当時(彼が29歳の時です!)のマルクス思想の限界もよくわかりましたが、その欠落や時代的制約性をこえて、彼の格闘したテーマの普遍性を再認識しました。彼の主張はある意味シンプルで、資本主義的な私的所有制度そのものを変革しない限り、本当の人間解放は訪れないということです。

                      マルクスはグローバル化の基本的な論理を理解していましたし、それがもたらす社会の姿についても的確な見通しをもっていました。

                      「かれら(ブルジョア階級)はすべての民族に、いわゆる文明を自国に輸入することを、すなわち、ブルジョア階級になることを強制する」、「ブルジョアが執着する文化とは、大多数の人間にとっては、機械となるための教化でしかない。」「何故そうなって(恐慌が起こって)しまうのか? 社会に文明がありすぎ、生活手段がありすぎ、工業がありすぎ、商業がありすぎるからだ。社会が自由にすることのできる生産力は、もはやブルジョア的文明およびブルジョア的所有関係の促進には役立たない。」…

                      マルクスにとって「文明」とは、まさにブルジョアが作り出すものにほかならず、歴史の中で乗り越えられるべきものでした。しかし、逆に言えば、ブルジョア文明を克服した世界にこそ、人類にとって真の「文明」があるのだと言い替えることもできるかもしれません。

                      この本の後半でマルクスが否定する、「共産主義」と似て非なるものたちは、空想的社会主義や保守的社会主義も含め、どれもその社会変革が不徹底であるがゆえに、おのずと歴史的限界をもっているということになります。「人間の顔をした資本主義」と「空想的社会主義」との間に現況を突破するためのヒントがあると思っている私としては、サン=シモン、フーリエ、オーウェンといった思想家たちは、今こそ再読・再評価するべきだと思っていますが、マルクスの「共産主義」にとっては(ある程度は評価をしながらも)まだまだ不十分なのです。

                      しかし、資本主義、すなわち私的所有関係の根源にまで変革の力を及ぼすことなしに真の革命や人間解放はないという彼の指摘は、やはり正しいと思います。最近、トマ・ピケティやセルジュ・ラトゥーシュなど、このマルクスの取り組んだ大テーマを再び正面から取り上げようとする思想家が注目されていますが、時代がそれを要請しているのだと思います。次の問題は、「それをどう実現するのか」という<方法>の問題にほかなりません。


                      | 佐々木寛 | - | 02:57 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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